論理積エンターテインメント
私の趣味の一つにラジオ鑑賞があります。
とりわけのめりこんでいるのが、鷲崎健さんのラジオです。たとえば↓このラジオは、おまけパートを聞くために貴族会員になっているほどです(貴族=お金を出して聞いているリスナー)。
鷲崎さんの特徴は、とにかく「たとえ」が多いことです。たとえが飛躍しまくって、話が逸れるのを「脱線芸」などと評する人もいるくらいです。
たとえとは普通、難しい話を分かりやすくするために用いられるものですよね。
しかし彼の場合は違います。「おもしろくするため」にたとえを用います。
たとえの内容が、私の生まれる前の芸能やTVに関係するものになってくると、いよいよわけが分かりません。でも、それを楽しそうに話すのが結果的におもしろいのです。
それに影響を受けて、私も日ごろの会話にたとえを取り入れるようになりました。
特に、大学時代に塾講師をやっていたときは授業でよく使っていました。
塾の場合は当然、難しいことをかみ砕く目的でたとえが重要でした。しかしそれだけでなく、生徒の興味を惹くという意味でも大いに役立ってくれました。
大学卒業とともに塾講師は辞めることになりましたが、生徒たちからもらった色紙には「一番おもしろい先生でした」という嬉しいコメントが書かれていました。
人生で「おもしろい」と面と向かって評価されたのは初めてでしたから、驚くとともに喜びました。
■共感の楽しみ
なぜ、たとえがおもしろいのかを考えてみると、「分かる」ことに本質的なおもしろさがあるのではないでしょうか。
分からないことが分かったときに、喜びを感じますよね。
また、他者の感覚を理解できたときも同様です。「あるある」ネタで盛り上がるのはこのためだと思います。大げさに言えば、脳と脳が太めのパイプで通ずる感じです。
内輪ネタに関しても同じ要領で説明がつきます。外から見て至極つまらないのは当然なんですよ。輪に入れないわけですから。
自分と相手の理解の輪が交わっている部分=エンターテインメントだと思います。
鷲崎さんのラジオにしても、初見の人には楽しめない仕掛けがいっぱいです。ずっと聞いている人だけに分かるという点で、そこをピンポイントに楽しめるのです。
自分と相手(ラジオ)の輪だけでなく、ここに世間一般の輪を持ち出してみましょう。すると、「自分と相手の輪だけが交わっていて、世間一般の輪が決して交わらない部分」があります。
この部分こそ、至高なのです。マグロで言えば大トロ、ボルドーワインで言えばマルゴーのような局地性が刺さるのです。
換言すれば、道端に転がっている大半のものはガラクタで、しかるべきところにしか価値のあるものは存在しないのです。
■謎かけは年寄る前に
たとえを話に盛り込もうと頭を働かせることは脳トレになると思います。
試してみれば分かりますが、結構考えます。私は塾の授業でよくやっていたので、訓練を積むうちに「頭の回転が速くなったな」と感じることが多々ありました。
そもそも、どうやってたとえればよいのかと言えば、謎かけをすればいいのです。
Aという話があったら、Aの特性をまず頭に並べます。並んだ特性をじっくり見ているうちに、その中のどれかがBとの共通項であることに気づきます。
そうしたら、その共通項をたどってAをBにたとえてしまえばいいのです。
いきなりBの話をしつつ、さりげなく共通項をちらつかせるというのがテクニックです。「たとえなのか!」と気づいた瞬間、リスナーはテンションが上がります。
具体例は思いつかないのと、野暮ったくなるのとが理由で書きませんが、ぜひ鷲崎さんのラジオを聴いてみてください。