Polyunus

ポリウーヌス(多と一):「日々改善」をモットーに、1型糖尿病患者が多面性を表現し、磨きをかけるためのブログです。

見た目は大事です、でも中身の方がもっと大事です

 
 
 
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行きも帰りも輪行で、柳沢峠に行ってきました。楽しみでなのか、ほぼ一睡もできずに3時起床、7時前には青梅から出発してました。 青梅→柳沢峠→勝沼ぶどうの丘→大月 獲得標高2101メートル!距離は100kmでした。道理で辛いわけです…。大月に着いたのは16:30でした。 しかしながら ・青梅から多摩湖方面に向かうからこそ見える左車線からの青々とした渓流 ・多摩湖の風景 ・道の駅たばやまの鹿ゴロッケバーガー ・たばやまで見かけた、ずっとゲーム休憩していたはずの男子高校生に峠最後の数kmで抜かされたこと ・勝沼ぶどうの丘展望ワインレストラン ・塩山フルーツラインから眺めた空と雲 これらが夏の思い出になりました。 そして、整体の先生に言われて扇風機直撃をやめたら膝痛が出なくなったことも素晴らしかったです。前日湯船に使ったのも奏功?

杉原和樹(@houkuk)がシェアした投稿 -

 

相変わらずロードバイクでお出かけし、肌へのダメージを蓄積しています。今年は日焼け初めが3月だったので、半年ぐらい継続的に日焼けしていることになるんですね。

 

高校時代からの友だちでありバンド仲間がスキンケアに詳しいため教えてもらって某オーストラリア発のオーガニックコスメブランドの日焼け止めを買いました。しかし・・・

 

体表面戦争

前期

派手にかぶれました。ロングライドでというよりも、その後普通に外出する際に塗っていたら強烈な8月中旬の日差しに反応してか腕中がポツポツと赤い斑点を出し始め、ついに仕事も手に付かないほどのかゆみが生じました。

 

特に腕がひどく、ブツブツでザラザラの状態に覆われていました。まるでアシタカの腕です。次いで顔はさほどかゆみは強くないものの、洗顔時に触れば一発で分かるほどザラザラになりました。うすら赤みもかかり、まるで鬼の皮膚のようでした。

 

皮膚科へ行くと「これはひどいね~」と先生も驚きのようす。ステロイド剤のリンデロンと、保湿剤のヒルドイドを半々で配合した薬をもらいました。来る日も来る日も塗り続け、薬のおかげなのか自然治癒なのか分からないペースで2週間ほど経ってようやく治ったのでした。ちなみにヒルドイドが効果大なおかげで、顔と腕は恐らく今回の件を経てかつてない滑らかさに生まれ変わりました

 

中期

ところが、性質の違う赤い斑点が腕の別の個所、そして脇腹付近に出ているではありませんか。明らかに症状からして別だと思い、再度皮膚科へ行ってみました。すると、「あせもかな・・・?」との診断。処方された薬は、今度はかなり良いペースで効いてくれました。脇腹の斑点はインターネットで調べると肝臓の病気もサジェストされてしまい、飲酒量のせいかと一時心配になりましたが、どうやら飲酒が原因ではなさそうで胸をなでおろしました。

 

後期

ところがところが、今度は顔に怪しげな発疹が現れ始めたのです。そう、ニキビです。

 

恐らく前日に電動髭剃りを強く当てすぎたのが原因ではないかと考えています。とは言え額にも現れているので内面的な問題も疑われます。こればかりは深追いできていません。

 

顎横、頬骨付近、額、眉間、鼻など広範囲にでき始め、市販薬で対抗しました。

 

言ってしまえば「イマココ」なのでまだ治療中なのですが、やっと痛みは軽減されてきて痕も少しはマシになってきました。あと少し工事を続けて、サグラダファミリアよりは先に全身の肌を完成させようと思います。To be continued...

 

weapons

今回の記事は別にアラサー男子の肌事情(サタデーナイトにまた会おうと韻)が話したいわけではないのです。

 

でも最後におすすめの化粧品だけ貼っておきますね。

 

ハイエンドなインターフェイス

さて、前回記事に引き続きアイドル(DIALOGUE+ukka)にハマっているのですが、彼女らのSNS投稿には化粧品の紹介やメイク動画、髪型の作り方動画などがあります。そこに関心が持てるようになりました。

 

みんな相当努力しています。活動開始当初からすると明らかに今の方が良くなっています。それには・・・

  • ダンス練習による体型の最適化
  • メディア露出の度に行われる自他のフィードバックによる「見せ方」の改善
  • 表情筋の発達

などが起因しているのではないかと察します。

 

「垢抜ける」というのは、本人の努力により(ある程度は)そうなるべくしてなっているのだと思いました。

 

自分でもスキンケアし始めて分かりましたが、肌の状態を整えるだけでも段違いです。考えてもみれば体表面のわずか数ミリ。ですが逆にそこさえ良ければその内側を他人が窺い知ることはできないのです。なんだか不思議です。

 

日焼けでダメージだらけの肌に、家にあった適当なクリームを日々塗り込むようにしてみたら恐ろしくスベスベになりました。昔は二の腕によくあるブツブツができていたのに、気づいたらそんな問題とは無縁になっていました。

 

かように、実は人目に触れられる貴重なインターフェイスが肌なのです。全然馬鹿にならないですね。

 

ポスプロの妙技

レコーディングや映像制作でたとえてみれば、これはポスプロ(ポストプロダクション)です。つまり録音・撮影が終わったあとに行うブラッシュアップです。

 

6月に行われたDIALOGUE+のオンラインライブ「ぼくたちのかくめい」は当日リアルタイム視聴して度肝を抜かしました。オンラインライブというものが初めてでしたが、驚きの演出が連続して、感動しました。

 

私だけでない、ファンからのあまりに大きい反響から、9月にBlu-rayディスクが発売となったわけですが、先日視聴しました。これまた素晴らしい作品になっていました。カメラのカット割りが洗練されていたのはもちろん、歌のピッチ修正やタイム修正、一部ミスが目立たないようにする工夫などポスプロの努力が手に取るように分かりました。

 

スタッフの熱意でしょう。「このシーンはこのメンバーの動きを見てほしい」と言わんばかりのカット割りや、ライブ音源の最終調整といった各パーツが相まって、6月の配信当時何度も見たはずのライブが新鮮に見られました。もっと言うと、6月より感動は大きかったです。

 

そのとき、ポスプロはごまかしなんかではないと思いました。これは作品をより良いものにするための必要善なのだと思いました。

 

当然ながら撮って出しのプロダクションそれ自体のクオリティが出発点ですから、メンバーの努力量もあってこそです。でも調味料を足してもいいのではないでしょうか。

 

それは上手に焼いたステーキにパラリと振る塩胡椒であり、ミルクティーに散らすシナモンパウダーであり、蕎麦に乗せる刻み海苔なのです。

 

評したいのはデルタ

スキンケアや化粧と言ったアナログのポスプロ、そして機械の力を使ったデジタルのポスプロ、どちらも変化量デルタに心惹かれます。

 

そこには「本気」や「努力」が見えます。

 

たまたま生まれたままで「見てくれ」が良かった、ダンスや歌に対する天性の才能を持っていた、というのもすごいことですが、それはアイドル文化とは異なるタイプのエンタメだと思います。

 

何も努力しなければ、大部分の人間が見てくれは普通ですし、ダンス・歌・楽器・スポーツなどの能力だって普通でしょう。

 

私にしても、学力やドラムの演奏能力や歌唱力は努力で身に着けたものでありスタートはゼロ地点だったと思っています。今となってはどれも平均レベルよりは自信がありますが、今の状態にたどり着いたことを「才能があったから」とは微塵も思えません。

 

そういう意味で近い目線に立てるからこそ、アイドルには魅力があるのかもしれません。

 

表層と深層

見た目と中身は一大テーマでありますが、これだけ「見た目」の話をしてきたもののやっぱり逆説的に中身が真に大事ではないかと感じています。

 

というのも先に述べたとおりで、たまたま見てくれが良いとか才能があるとか、そんなことはたまたまでしかないからです。ドラマがありません。面白味がありません。
※もちろん、あまりの天才性に目を見張ることはあるでしょう。それはそういうエンタメとして楽しめばいいと思います。

 

言いたいことを的確に言うのが難しいのですが、中身がしっかりしていればある程度見せ方にも配慮できるため、結果としては良いのではないかと思うようになりました。

 

これまた言い方が難しいのですが、美男美女カップルに不安を感じるのです。表層だけで惹かれているとすれば非常に脆いのではないでしょうか。深層の醜さが露呈したときに、どうなるのか心配です。

 

血塗られたレッドカーペット

ここから一気に話が変わるかもしれません。

 

表向き華々しい芸能界で悲惨なニュースが相次いでいますね。これは先回の記事でも取り上げた話です。

 

本当に、我々は見た目に憧れるので「あんなに第一線で活躍して、いいなあ」と単純に羨むことができます。しかし当の本人はと言うと、同じ人間なので釈迦の金言「人生は苦なり」から逃れられているわけではありません。

 

有無同然、色や形は違えど苦しみを抱えています。

 

人間の想像できる幸せの形はすべて相対的なものです。そもそも、想像している幸福を説明する、言葉それ自体が相対的なものです。

 

たとえば「赤い」と表現すれば、それは「緑ではない」とか「青くはない」という相対性を持ちます。デジタルな表現をすれば、RGB値という相対的な尺度における「R:G:B=255:0:0」という表現です。

 

もう少し広く言えば、「色」というわずか1つのカテゴリーの中における相対的な「赤」としての立ち位置があります。それはカテゴリーを念頭に置かなければまず説明できません。

 

上記は視覚の例ですが、ほかにもたとえば「スイカの味を教えてください」と言われたとしましょう。「甘い」とか「さっぱりしている」とか色々言えましょうが、「○○!」とそのものズバリを一言で言い表すことはできません。適当な言葉を創出して「スイカい!」とか言うことはできても、それは説明になりません。

 

(どうでもいいのですがレッドカーペットという見出しを付けたら「赤」とか「スイカ」とかつられたように出てきますね。)

 

釈迦も悟りを開いた直後は「この絶対的な真理を相対的な言語で説くことは不可能」と一時は自殺を考えたそうですが、「説かなければ尚更分からない」と説法を始めました。それが一切経七千余巻と言われる膨大なお経になったわけです。

 

繰り返しますが言葉は相対的、そして説明対象となる幸福像自体も相対的です。「年収1000万円あったらいいな」とか「結婚してマイホームが建てられたらいいな」とか「インフルエンサーになれたらいいな」とか、全部相対的です。

 

年収1000万円になったらその瞬間、それまでの年収との相対性で喜べます。きっと年収100万円からの急成長なら喜びも大きいでしょうが、年収800万円からの伸びならさほど喜びはないはずです。また達成してしまった後がとりわけ深刻です。年収2000万円の人の存在が頭をもたげます。その上、さらに上もいます。

 

引き合いに出すのは申し訳ないですが、年収を公言している(させられてしまった)芸人「天津」の向さんはある年の年収が800万、次の年が1300万だったそうですが、「大して感覚は変わらない」と言っていました。その言葉に真理を感じました。

 

お金から寿命に話題チェンジしましょう。人生50年だと言っても人生100年だと言っても、所詮は相対的な話なのです。質を抜きにして量だけで語るにしても、年数上の長生きが一概に良いことだとは言えません。もちろん可処分時間は多いでしょうが、それは人生の長さから相対的に位置づけられるので何の意味も無いです。フラクタルな図形をズームインしたりズームアウトしているだけのような感じがあります。

 

そう考えると、大学進学率が上がったとは言え平均寿命の異なっていた時代と比べて教育システムの年数がさして変わらないのって少し不思議です。平均寿命の長くなった現代人は、相対的に早く社会に解き放たれることになります。

 

昔の10代って老けて見えますし、今の40代って結構若く見えます。

 

話をレッドカーペットに戻すと、あんなに華やかに見える芸能界だって幸福の尺度は相対的なのです。むしろ平々凡々とした一般人の方が気楽かもしれません。なにせ一定程度成功して見える芸能人は世間のプレッシャーも受けるため「こんなに認められているはずなのに、何かが違う・・・」という違和感も大きいのではないでしょうか。加えて最近で言えば誹謗中傷の嵐が巻き起こっているのです。

 

(まわりから受ける羨望ほど)思ったより幸せではないのにも関わらず、時にいわれのない批判を受けたりするとすれば、かなり悲惨です。相当にタフか、自分のやりたいことに適合しているのでなければやっていけません。

 

相対の幸福|絶対の幸福

普通「幸福」と言うものの差すところは相対的なので、「相対の幸福」です。生きているときですら崩れる可能性があり、そうでなくても肉体の死によって必ず崩れ去る儚い幸福のことです。

 

これに対して浄土真宗で教えられる今生における到達点・決勝点が「絶対の幸福」です。これは生きているときはおろか、肉体の死によってすら崩れない幸福です。てきとうに言っているのではないことを示すためにあえて専門用語で言えば「現生正定聚」です。
※生きている現在、正定聚不退転=さとりの51段目/52段中になること。

 

相対の幸福ではいつまで経っても満足できないのが人間=煩悩具足の凡夫なので、定義上どうしようもありません。キリのある人生でキリのない欲望を満たすことはできません。

 

ということで、仏教のゴールをポップに言えば「絶対の幸福になろう!」というわけなのですが、ここで勘違いを起こす人が出てきます。

 

「相対の幸福は求めてはいけないのですか?」とか「相対の幸福は無駄なんですか?」とか「美味しいものを食べたり旅行に行ったり音楽聴いたりするのを止めて仏教を学べというのですか?」とか・・・そういうことではないのです。

 

絶対の幸福が目的、相対の幸福は手段です。

 

だから目的は1つなのですが、人によって暮らしはさまざまです。私のようにロードバイクや音楽が好きな人もいれば、ゲームや映画が好きな人もいるというだけです。

 

上記のような趣味も手段であれば、仕事も手段です。目的を生活の中心に据えながら、その目的を達するために必要な過ごし方をすればいいのです。

 

まあ、目的が生活の中心になっているかどうかは反省なのですが・・・。

 

したがって、私も「相対の幸福」において実現したいことは結構たくさんあります。楽曲提供とかですね。もっと預金通帳を気にせず過ごしたいとか、食費にお金をかけたいとか、ピナレロのハイエンドロードバイクが欲しいとか、挙げればいくらでもあります。流石は煩悩具足。前世は餓鬼界の衆生だったろうと常々思います。

 

何が言いたいかというと、まず第一に目的を達成して中身のある状態で、見栄えとしても良い感じの生活を送れるようになりたいのです。

 

本日のまとめ(られない)

見た目は大切、ですが中身を伴わない場合は心もとないものです。本質的には中身が大事、でも外見も気にしたいですよね。

 

そんなことを思いながら気が付くと秋になっていました。乾燥肌にはお互い気を付けましょう。