意志の見えざる手
仕事のときと私生活とで考え方がだいぶ違うなあと思い始めました。
●仕事
・テキパキ
・ある程度決めた優先順位に従って動く
・人の役に立ちそうなことをする
・割と能動的
●私生活
・気まま
・思いつきで動く
・自分の役に立ちそうなことをする
・だいぶ受動的
こんなところです。
ぱっと思いつくのは家事です。手付かずの洗い物は溜まりますし、乾いた洗濯物も溜まります。掃除だって思いついたとき、気が向いたときにしかしないので計画的ではありません。
一方仕事なら、未処理のメールや事務作業があれば優先順位を割り振ってから逐次処理していきます。こうして行う一連の作業そのものが快感です。デスクはそこそこに片付いており、PC内はさらに片付き度が高いと自負します。
なんせデスクトップはアイコン非表示です。「一時領域」「開発系」「技術情報」など、自分なりのカテゴリに区分してフォルダー整理しており、大体のファイルの置き場所は決まっているので取り出しもそれなりにスムーズです。
能動性も大差ありです。
仕事なら比較的積極的に動いて、業務改善を図ったり勉強したりしています。
その意味では私生活でも確かに本を読んで生活改善は図りますね。しかし人付き合いが特に受動的な感じです。
飲むのは好きですが、めったに自発的に飲みに誘うことはしません。まあこれは性格的な問題でしょう(と、斬り捨てていいのやら…)。
■目標の有無
ところで、このように違いが出てくるのって、目標の有無ではないかと思いました。
仕事なら昇格、昇給という目標があります。自己実現というのもいくらか手助けして、能動的に動ける精神を手にしています。
ヒューマンスキルが活かせたり、技術力が高まるのはそれそのものが嬉しいことですからね。
これが私生活となると、「家事をきちんと行う」とか「趣味を極める」といったことに明確な目標なんて設定していないのだと思います。
それらが卒なくこなせるからといって自分が変わりにくいから、だからこそ逆算して目標を立てるのが難しいのでしょうか。
そう考えると本質的に仕事上の目標よりも私生活の目標の方が圧倒的に立てづらいですね。仕事なら資本主義社会のステータスであるお金を設定でき、しかもこれは目に見えるもので数字ですから目標にもってこいなわけです。
私生活の目標ならお金を一回かませることはできますよね。たとえば家を買う=○千万円用意する、とか。
仮にそうだとしても、「では、なぜ家なのか?」という根本的な欲求まで深掘りして考えなければなりません。
というよりも、順番としては先に「なぜ○○なのか?」が来るんですよね。
価値観に照らし合わせて。さて私ならどんなことを目標に据えるだろうかと考えていますが、あまり思いつかないものです。
来年の目標が「私生活の目標を立てる」になりそうです。
何だか入れ子構造で変な感じがしますが、のうのうと生きるよりハリがありそうです。