AI vs. 教科書が読めない子どもたち③孤独ゆえの誤読
今日はちょっと感想部分が長いかもしれません;
■共存の道
重要なのは、AIにできないことが人間にできるのかです。
AIの弱点は「万を聞いて一を知る」点であり、人間に与えられたフレームを抜け出せない点であり、意味を理解できない点です。
つまりそれらが、人間にしかできないことです。「一を聞いて十を知る」能力やフレームに囚われない柔軟性です。
■読解力の欠如
じゃあ人間にしかできない領域を、本当に今の人たちができるのか。これが問題となってきますが・・・筆者は現代日本人の読解力不足を挙げて危機感を覚えています。
筆者は中高生の読解力を測るための「リーディングスキルテスト:RST」を開発します。実際にRSTを実施したところ、簡単な選択式読解問題を解けない中高生が多数いるという事実が浮き彫りになりました。
どのような問題が出題されるのか、以下にリンクを貼っておきますので見てみてください。
私は、これを見て「簡単だな」と思ってしまいました。
このテストの問題が解けないほか、単純に漢字を誤読する生徒が多いようです(テスト以外の授業などから報告された事実ですが)。
4択問題で正答率が4分の1以下というように、「サイコロ以下」の問題も多数紹介されていました。
■対処方法は?
RSTの成績と、生活習慣などのアンケート結果の相関を調べたみたいですが、残念ながら「こうすれば読解力が高まる」とか「こんな習慣があると読解力が低下する」といった結論は一切導き出せなかったようなのです。
じゃあ手の打ちようがない・・・となりそうですが、埼玉県戸田市の好例が登場します。RSTを市の教員が受けて、「どうすれば教科書が読めるようになるのか」を研究したそうです。その結果、その市の成績順位が埼玉県内において高まりました。
ただし具体的に何をしたかまでは書かれていません。たった1年の結果なので、これをもって科学的にどうこう結論づけることはできないようです。ただただ、教科書が読めるように教育することが重要なのかもしれません。
無知が集まり、問題を議論しているときに誰かの間違った意見に同調して結果的に全体がその間違った方向へと向かってしまうことがあるようです。これはアクティブラーニングの弊害です。
正しい情報を拾ってそこから推論するという能力が必要ですが、今の日本の中高生の大部分にその力が不足していると筆者は見ています。それができないことには、アクティブラーニングを取り入れたところで議論するだけに終わってしまい、結局正しいことは何だったのかを検証できません。
このように、読解力が不足しているのは危機的状況なのですが、中高生時代に養えなかったからといって諦めることはありません。何歳からでも読解力は養えることが、筆者の身の回りの例から分かります。
■感想
人間ならではの領域、「一を聞いて十を知る」とか柔軟性といったものは、全員が持ち合わせているものではないと感じます。
「一を聞いて十を知る」で言えば、相手の気持ちを察する力でしょうか。会話していて、相手が何を考えているのかをすかさずキャッチする能力です。
柔軟性については、常識を疑ってかかることだと思います。すなわち、自分が頑なに信じている「常識」の範囲外の意見が聞こえてきたときに、それを一旦受け入れて考えることです。自分の常識から離れられない場合は、そんなことはできないと思います。
中高生のみならず大学生、社会人の読解力不足が挙げられています。これって確かに危機的なことですよね。便利なコミュニケーションツールであるメールが封じられるようなものです。仕事で大量にメールのやり取りをしますが、そこで発生する齟齬によってどれだけの不利益が生まれるか・・・お互いの読解力をある程度信頼しあってやり取りしているので怖いです。
で、どうすればその読解力が向上するのか。本の中に答えは無いわけですが、個人的に考えたのは「問題意識を持つこと」です。
問題意識があるということは、その問題を俯瞰することになります。つまり一つ上の視点に移動します。本の中で紹介されているRSTで「読解力が足りない」ということを当事者各自がまず知ることに始まり、「どうすれば読めるのか」を考えるべきではないでしょうか。
少なくとも読解力不足というその問題すら認識できていない低次の視点から、問題を認識するという高次の視点への移り変わりは意味のあることだと思います。
読解力はいつからでも磨けるようですから、私ももっと頑張ります。
とは言え私も昔は本が苦手、国語が一番苦手、文章を表面的にしか読めないという完全な読解力不足人間でした。今は少しマシになった自負があります。
何をして変わったのだろうかと考えてみると、無理して本を読むようになったことによるような気がします。初めはもちろんキツいのですが。
文章を表面的に、ただ音声が頭の中に聞こえてくる感じでしか読めなかったのですが、「それは文章を読んでいることにならない」と自覚しました。そしてなるべく文章の内容を頭でイメージして読み進めるようになり、変わりました。
また、本の中にあった「単純に漢字を誤読する」問題についても考えるところがあります。読めない漢字(文字)は、理解できません。つまり読み飛ばしてしまいます。ということは、知らない単語・漢字が多ければ多いほどハンデを背負うことになります。
ここで思ったのが、最近の人はコミュニケーション不足で語彙が減っているのではないかということです。漢字を「誤読」するということは、自分の中で発生している問題です。他人と共有する、その言葉を使うということをしてさえいれば、自然と正されていくはずです。
昔私も小学生のころ、「関東平野」を「かんとうひらの」と思っていました。たまたま友達と会話するときにその単語を使ったところ、ことごとく馬鹿にされたのを覚えています。馬鹿にされて、それでも「ひらのと読むはずだ」と思っていたので他の方法を使って調べましたが、残念ながら「へいや」でした。こんな感じで、苦い経験を積んで正しい読み方は身に着くものだと思います。
ですがそもそもその機会が減っているとしたら・・・。家族は遅くまで仕事をしていて帰って来ない、友達と遊ぶときもゲームに没頭していて会話が少ない、近所づきあいが少ない。
なんだかこうしてアウトプットしてみると改めて、現代社会って「機械的」になってきているなと感じました。逆に今こそ人間的なつながりの大切さが表現してきています。身体を使った遊び(たとえばボルダリングとか!)はどんどんやっていくべきでしょうね。