AI vs. 教科書が読めない子どもたち②数学の限界
■日米サービス比較
Googleなどの米企業は無償サービスを提供し、ユーザーの利用データを集めています。モノづくりの国日本とは対照的です。日本だと製造責任がつきまとうとのことです。要するに「無料だからまあいいか」がそんなに通用しないということです。
日本でAIを使った何かをサービスとして提供するなら、そのエサとなるビッグデータもちゃんとした手順を踏んで集められ、与えられるということですね。コストを取るか質を取るか。その点アメリカはコストを取って「堅苦しくならずにやってみよう」という国民性が感じられます。
実はこのブログもあんまり堅苦しく色々決めずにやるという裏テーマがあります。元々の性格が堅苦しく考えるタイプなので、そうこうしていると何も進まないのを危惧してのことです。昔は「今日書いた記事のタグはどうしよう」とか「毎日更新できなかったらどうしよう」とか「このブログにはこういうトピックだけを取り扱おう」とか・・・色んな枠を設ける癖があったのですが、そのせいで続かないこと続かないこと。もうやめました。「ざっくり」感って時には大事だと思います。
さてちょっと逸れてしまいましたが、元に戻ります。
ロボットが冷蔵庫を開けてジュースを取り出し、ダイニングに持って行く―このようなよくありそうなデモンストレーションの裏側はかなり緻密だと言います。
シナリオがガチガチに決められているのに、それをあたかも「何でもできるロボットがたまたまこういう動きを選んで取っている」と思うのはこのシーンだけしか見ていないからです。
人間の常識というのは複雑なもので、「こう来たらこうする」みたいなパターンが無数にあります。理論上、そのパターンをすべてAIに学習させることが「できれば」、確かに人間の振る舞いができるのでしょうが、そんなこと教えるのは途方もないですよね。
また、文脈や意味を理解することができません。会話文を読んで、暑い日の話だったら「飲んでいるものは冷たいはずだ」など、無意識のうちに人間なら判断できることも、AIには教え込まなければなりません。
■数学のフレーム
AI=コンピューター=計算機=四則演算しかできない
これは筆者が何度も書き重ねていることです。四則演算しかできないということは、数学の枠組みを抜け出せないということです。
数学は何を表せるのかというと、論理・確率・統計で表せるものだけだと言います。
興味深かったのは超越数の話です。超越数の例として円周率πや自然対数の底eが登場します。
こういった超越数、理論上はもっとあるそうなのですが、見つかっていません。筆者の考えでは数学の表現側に限界があるからではないかと言います。つまり、数学が持つ言語が論理・確率・統計の3つしかないことが理由だと。
■取り繕うこと
自動作曲の話が出てきました。ある時代のあるクラシック音楽っぽい曲をAIが作曲したデモというのが、実に「それっぽい」とのことです。
しかし、そのデモも10秒程度なら聞いていられるのですが、長く聞くには堪えないようですね。「曲がどこに向かっているのか分からない」と書かれていました。
曲の「意味」は何かということがAIには理解できないのです。教師データを統計的に分析して、表面的に「それっぽい」ものは作り出せてもその意味は抜け落ちてしまいます。意味は数学では測れないのです。
もし人間の認識していることをすべて数式化できたら、それはAIにも扱えることになりますから真のAIが登場するかもしれません。ですが、数学の表現の限界から考えてそのようなことはあり得ないでしょうと結論づけます。
■感想
AIには意味が理解できない、というのが印象的でした。普段意識して「意味」を扱っているわけではないですが、ここまでAIに本気で色々なことをさせることにより意味を理解できないことが浮き彫りになったのはおもしろいです。
表面的な真似ならAIでもできるかもしれませんが、それは応用が効かないものになってしまいます。
逆に言うと、物事の本質とか意味といったものを考えずに動いていてはAIと同じですね。
「こういう風に動け」と誰かから言われて、言われるがままに動いている「だけ」ではAI止まりじゃないかと思いました。
AI自身では生み出せない、目的意識は大事ですね。